昨日のこと。きょうは暖かいな、嬉しいな、と思いながら、庭の植物の手入れをしていたとき、ふと、近所に住むおじさんの姿が心に浮かびました。
そのイメージは、繰り返し繰り返し やってきました。
パンジーの花がらを摘んでいるときはパンジーの傍らに、ムスカリの球根から出て育っている芽を喜んでいるときはムスカリの鉢の脇に、まだ実のなっているユズの樹を見上げたときは、樹の向かい側に…と、わりとしつこく、おじさんのイメージは、付いて来るのでした。
イメージが浮かぶ…というより、”気配” として、感じました。
それで、あれ?もしや…? と思い、家に入った後、母のつけている家計簿のメモ欄を見てみたら、「2月〇日 〇〇さんのご主人亡くなる。町内会の集金 お香典 500円」とありました。
ああ・・・
庭で “おじさんを感じた” とき、「あれ? 最近見かけなかった おじさんだけど、もしかして…?」と思ったのですが、やっぱりそうでした。
もう何週間も前に、おじさんは亡くなっていたのでした。
*
そのおじさんは、会ったら必ず「こんにちは」の挨拶に続けて ひと言ふた言 話しかけてくる、近所でほぼ唯一の人でした。
おもに、庭の植木のことや、私も気に掛けている野良猫のことでしたが、ニコニコしながらお話ししてくれました。
おじさん、うちのユズの実がたくさん生りすぎた年、私が収穫に苦戦していると、自宅から高枝切りバサミを持って来て手伝ってくれましたっけ。
高圧洗浄機を買って試運転をしていたときは、すごいもんだねぇ、壁がピカピカだね、と笑っていました。
ガレージの脇に生えていた花樹が病気になって枯れてしまい 切ることを決めたときは、植木屋さんの伐採作業を通りかかって見かけて、可哀相だったなぁ、綺麗なお花を見せてくれる樹だったよねぇ、ありがとね、と、樹に話しかけてくれて、慰められたこともありました。
穏やかで優しい、チャーミングなおじさんでした。
*
私は、”霊視鑑定” ができるような力は持っていませんが(※霊視とか除霊というのは、そういう「係の人」のすることだと思っています。高い安定した波動を保っている人、また、生まれつき “選ばれている人” の仕事だ、と。)、
でも、はっきりと、わかってしまうときがあります。
誰かがもうじき亡くなる…という確信をポンと得たり(大抵あたります)、もう亡くなったんだということが分かってしまったり、”交信” も、まれにですが、してしまいます。
“ふと、お顔が頭に浮かんで” 確信することもあれば、夢の中で ご本人に死ぬことを知らされる…というパターンもあります。じつはもう亡くなっていた、と後で知ることになる人を、街中で見かける…などということも…。
またそれは、親しい間柄の人や知り合いに限ったことではなく、実際に会ったことのない芸能人や著名人だったり…、そこも 謎、よく分かりません。
友人たちは私にそんなところがあるのを知っているので、テレビに出ていたような人が亡くなると「今回も分かってた?」「夢で見た?」と質問してきたり、「私のイメージが出てきたときは、早めに教えてね。散らかった部屋を片付けるから!」などと冗談を言ったりします。
私は、う~ん、毎回必ず…ってわけじゃないからなぁ…と言います。
そして、この半端な(?)能力、役に立たないなぁ…と思います。
昔、あるサイキックに「そういうこと(死)を感じ取るチャンネルを持っていて、それがときどき開いてしまう、作動してしまう、ということでしょうね」と言われたことがありましたが、そんなこと言われても…と困惑するばかりでした。
それで後に、自身の直感、霊感を健康的に安定的に役立てたいと思って、エネルギーを視たり動かしたり…ということを学び、練習する学校へ通って、力の使い方を習得しました。これはとてもよかった、人生が大きく変わりました。
人が亡くなることが “わかってしまう” ことについては、「ただそれだけのこと」ではあるのですが、でも今回のように、親しかったわけではないけれど好きだったなぁ…と思うような人の死を、独特な感じで知らされて、それを噛みしめる時間を持ち、私なりの「お見送り」を心の中でするときは、自分の この 感知する力 は悪くないな…と思います。
人は、身体を失った後も暫くは生きていたあたりに居て、少しずつ離れていくものだそうです、その人生で使った肉体を失ったことにだんだんと慣れながら…。
おじさんは、まだこの辺にいて春の訪れを感じて喜んでいたんだろうなぁ、だから私は暖かくなった日の庭仕事中に「接触」できたんだろうな…と思いました。
しかし、知っている人が とっくに亡くなっていた…と知るのは、ショックなものですね。
私は、おじさんが亡くなってしまい もう会えなくなって、寂しいです。
おじさん、さようなら。ゆっくり休んで、また良い旅を…。
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