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自分のために怒る

カウンセリングをしていると、目の前に座っている面談者の方が、ものすごく美しく輝いて見えるとき、というのがあります。

それはその方が、堪えられずに泣き始めて、散々泣いて、そして心の奥の方から若々しくて新鮮な何かを取り出したようなときだったり、深い洞察の後に何かに気づいて、なんというのか纏っていた硬いものをパラパラパラっと振り払うときだったりするのですが、すごく尊い瞬間に立ち会っているのだな…と思い、鳥肌が立つようなこともあります。とても綺麗だなぁと思います。

それから、話しているうちにふと、怒りの貯蔵庫みたいなところにホースをぶっ刺したな、ということが分かるときがあるのですが、そこから怒りを汲み出してはぶちまける…というのに立ち会っているときも、その迫力に対しては(心理的には「構えのポーズ」をしますが)見せてもらっていると、これもまた、激しいものを徹底的に取り出している様子というのは、変な言い方ですが、やっぱり美しいと思います。

そういうものを目撃すると、人というのは普段は余計なもの(常識的な知識・思考や計算や気遣いなど…)で純粋な美しいものを包んで隠してしまっているものだな、本当は美しいんだな、ということを しみじみと実感します。

特に、「怒り」については、度々言っていますが、強くて歓迎されない感情であるだけに、どうしても表に出してあげにくいものです。
「けしからん悪事を働いているヤツに対して怒る」とか「気の毒な誰かのために、その人に代わってに怒る」というように、他人のため、どこかの誰かのため、世の中のためになら怒ることはできても、自分のことで、自分のために、ちゃんと怒る、というのは難しい、という人は少なくないように思います。自分のこととなると、まぁいいか、仕方ないか…となってしまう・・・。

でも、自分のために怒る、というのは、とても大事なことなのです。
怒りは2次感情というのですが、怒りの奥には、不安や寂しさや哀しみなどがあります。そしてその奥には、そういう何層にもなった感情に覆われた〈私〉がひっそりと息をしています。
私たちは、ちゃんと怒り、その奥にある気持ちに気づき、それらを解消して、少しでも〈私〉が ふくふくとのびのびと、本来の姿になっていくようにしてあげなくちゃいけません。〈私〉を幼な子と思って、ちゃんと見て守り、育てていく。
そう考えたら、”ときどき” 怒ればいい、”ほどほどに” 泣けばいい、ということじゃだめなんだと分かるでしょう。感情は、溜め込まず、小まめに、存分に、解放してあげることです。
もちろん、時と場所と方法は考えた上でなくては、大の大人、社会人としては まずいので、慣れるまで、あるいは特大級のものを感じたときなどは、カウンセリングを利用したりしながら上手になっていってください。

怒りを我慢し続けることは、あるいは、自分の怒りに気づいてあげられないことは、
まだ弱々しくて本領発揮とはなっていないけれど、とっても美しくて尊い〈本当の私らしい私〉を 粗末にしていることなんだと、心得ておいてください。

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