昨日までお休みを頂いたのは、第2子妊娠中の娘が 早産予防のシロッカー手術のために入院しまして、その間、第1子の孫娘(1歳半)を預からねばならなかったためでした。
孫娘はとても活発で俊敏な子で(ニンゲンの子というより子ザル。まさか!なアクロバティックな行動が多々)、そして、そういう子にありがちですが 意味ある言葉がまだ殆どありません。
信じられないくらいすばしっこくて、言葉によるコミュニケーションが成り立たない・・・。そんな1歳児との8日間だったのですが、昨日娘が退院してきて孫娘を引き渡したときには、どどーっと疲れが出ましたね。
どれだけ気を張って過ごしていたか、還暦過ぎの自分には「1歳児のワンオペ8日間」がいかに大変なことだったかが身に沁みました(苦笑)
でも、孫と過ごすおばあちゃんは 皆さん そうでしょうが、自身の子育てのときとは心の余裕が違いますから、「可愛い」と「楽しい」で満たされた時間でした。
幼児の心身の発達についても、子育てしていた頃のように真剣に捉えることなく見ていることができるものですから(責任を感じませんから)あれこれ考えたりせず、だから一緒に居ることが純粋に楽しいのだな…と思いました。
活力にあふれるお転婆娘の孫との一日は 本当にあっという間で、娘に頼まれていた行動記録を書かなかったとしたら、一日 何をしていたのか思い出せなかったんじゃないかと思います。
でも、”怒涛の8日間” ではありましたが 唯一、夜の寝かしつけタイムは 私にとって、頭を休ませ、いい感じの瞑想状態を体験できる、貴重な時間でした。
娘の指示で、いつも掛けているという『ゆりかごのうた』(オルゴール版)を、入眠までエンドレスで掛けてやっていたのですが、毎晩毎晩、孫が寝付くまでの小一時間、そのオルゴールの音楽に私は癒され、様々なことを思い出したりしました。ほぼ、ヒプノ・セラピーでした(笑)
私は子どもの頃から、この『ゆりかごのうた』の歌詞とメロディーが好きで、独りで眠る時や、お人形遊びでお人形を寝かしつける時に、繰り返し口ずさんでいたことも思い出したのですが、この度、眠りにつく孫の隣に添い寝をしながら ふと気づいたことがありました。それは、
小さかった私はいつもなんだか寂しくて、親も妹たちも居るけど寂しくて、暗くした部屋で眠るときには特に、自分は独りなのだなぁという感覚が増して心細くなるから、私はこの『ゆりかごのうた』を、自分に歌ってやっていたんだ、
ということでした。
ゆりかごのうたをカナリヤがうたうよ ねんねこねんねこ ねんねこよ
というのが1番の歌詞ですが、2番、3番、4番の歌詞でも、「ねんねこねんねこ」と寝かしつけてくれているのは、お母さんでもおばあちゃんでもなくて、カナリヤ、びわのみ、木ネズミ、きいろい月・・・なんですよね。
作者の北原白秋は、別にその赤ちゃんが独りにされている歌を作ったわけではなくて、きっと “お母さんが歌ってくれている” のでしょうけれどね。
私はいつも、こんなふうに思っていたことを思い出したのです、突然。
(自分のこころ的には) “誰もいなくて孤独” だけど、リアルお母さんでない誰か、見えていない何かが、高いところから見守っているんだよ、だから安心しておやすみ・・・。
それから、子どもの頃の私は、寝かされていた部屋の窓から遠くに見えていた大きな木(たぶんケヤキかクスの木)の てっぺんに、見えない〈神様〉を勝手に置いていて(その大木を祭壇のようにして)、夜眠る前や、学校から帰って独りのときなど、誰から教わったわけでもなく、手を合わせてお祈りをしていた・・・ということも思い出しました。
〇〇が叶いますように・・・というような願い事ではなく、今日も見ていてくれましたか? ありがとうございます、明日もまた頑張ります、という挨拶や誓い、あるいは、どうしてこんな辛いことが起きるんですか、という問いかけ だったと思います。
まったく、ナゾな子どもですが、とにかく ”見えない何か(私なりの神様)” に見守っていてもらっているんだと、思いたかったのだと思います。親や祖父母など、周りの大人に信仰心のようなものや祈る姿を見せる人は誰一人いませんでいたから、今生で覚えたことではなく、別の人生(過去世)で習慣にしていたことなのでしょう。
孫の添い寝ちゅうに聴いた『ゆりかごのうた』に誘われ、
子どもの頃の自分が「見えない大いなる存在」に守られているんだから大丈夫、と思っていたことを、思いがけず思い出した話でした。
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