家で古い書類の整理をしていたら、新聞の切り抜きの束が出てきました。
今はもう新聞は取っていませんが、私は昔から、新聞を読んで気になった記事、残しておきたいと思った記事を、チョキチョキ切り抜いてスクラップしておく・・・ということを習慣にしていたのです。
その新聞の束を手に取って読んでいて、思い出したことがあります。
まだ大学生だった頃のこと、当時 起きたある大きな事件の報道を、私は興味を持って追っていて、連日、新聞を読んでは関連記事を切り抜き・・・ということをしていたのですが、
ある日、大学から帰宅したら、置いておいたはずのところに新聞記事の束がなくなっていました。
おかしいな、確かにここに置いておいたのに・・・と思いながら母に尋ねると、
「捨てた」と言います。
「はっ!? 捨てたぁ!?」
驚いて声を上げると
「そんなところ(リビングルームの棚の上)に置きっぱなしにしているのが悪い」
「捨てられたくないものなら自分の部屋に持って行っておけばよかったじゃないか」
と逆ギレして言い返してくる・・・。
もう、がっかりしてしまい、捨て台詞を吐いて自室へ戻ったのですが・・・。
母という人は、とにかく謝ることができない人でした。
悪気なく私の息子の腕を引っ張って脱臼させてしまったときも、我が家で飼っていた猫を逃がしてしまったときも、「わざとやったわけじゃない」と言い、いろいろな言い訳をし、決して謝りませんでした。
そういう分かりやすいことでも謝れないのですから、私の “気持ちの問題” なんか伝えたところで無理で、「あんたみたいな気の強い子が何が傷ついた、だ!」「親を批判するなんて間違ってる」「ほんとに性格が悪い。友達なんかできないだろうね」・・・という調子でした。
「ありがとう」も、物を取ってあげたときなどに言われたことはありますが、心のこもった感謝の言葉というのは、60年間 一度も言われたことがないですね。
あるとき、両親用にと作った料理を 階下の母のところに届けたことがありました。引っ越した直後で荷解き作業の真っ最中、調理するのも大変だろうなと思ってのことでしたが・・・。
母はありがとうを言わないどころか、その料理を何日経っても冷蔵庫に入れたままにしていたので、「要らなかった? 好きじゃなかった? もう悪くなっちゃうよ」と言ったら、
「もらったものをいつ食べようが、食べられなくて捨てようが、こちらの勝手でしょう? まったく恩着せがましいんだから!」と怒られたのでしたっけ。
(こうして書いてみると、すごいな・・・)
ごめんなさい。ありがとう。
私に対しては言いたくなかったのだとしても、これ、たぶんよその人にも言えなかったのではないかな、儀礼的なもの以外は。
今もう母は、認知症を発症してしまっていますから、いろいろと鈍り、気づきにくくなっていますから、きっと一生「ありがとう」も「ごめんなさい」も言うことなく人生を終える、ということになるのだろうと思います。
そんな母を見てきて思うのは、心からの「ありがとう」や「ごめんなさい」って、ある精神的なレベルに達していないと、言えないものだよね、ということです。
昔は、母が感謝も謝罪もできないことにイラついたり悲しく思ったりして、母は意地を張っているのか?、プライドが高いせいか?、口に出せないだけなのかも・・・などと考えたものですが、そういうことではない。
たとえば、冒頭の話で言えば、「あぁ、あの捨ててしまった新聞紙は、娘が大事に切り抜いていたものだったのか」ということに気づいて、「確認せずに捨ててしまってごめんね。大事なものだったんだね・・・」と言う・・・という頭の中の活動ができない(本当に分からない、想像できない、思い遣れない)わけで・・・。
と、そんなことを、古い新聞の切り抜きを見つけて、改めて思いました。
私と同じように、親から謝られたことがない、親から感謝の言葉をもらったことがない、という人が、お客様の中にたくさんいらっしゃいますが、
「親御さんはきっと、あなたの気持ちや行動を、察したり認めたり大切にしてやりたいと思ったり、そういうことができる精神的な段階になかった(幼かった)のだと思いますよ」
と言うことが多いです。
心当たりのある方、そういう親に育てられた者の生きづらさのお話を、一緒にいたしましょう。
謝ってもらえなかった、褒めてもらえなかった、感謝してもらえなかった・・・。子どもの頃、そういう体験をしていると、どうしても自分の価値を見失います。「私は私でいい」という肯定感と自信を持ちづらい。
きっと生きづらいはずです。
だから、掘り起こしと手当てが、必要なのです。
この記事へのコメントはありません。