BLOG

痕跡が発するもの ~『兄の終い』村井理子

ネットで紹介記事を目にして読んでみたこの『兄の終い』、翻訳家でエッセイストの著者が、警察署からの電話でお兄さんの死を知るところから始まる、実話です。

もう何年も会っていなかったお兄さんが、縁もゆかりもないはずの宮城のアパートに10歳になる息子と二人で暮らしていたこと、そのアパートで病気で急死したこと、第一発見者は10歳の息子だったことを警察からの連絡で知らされた著者は、遠く滋賀の自宅から駆けつけます。

「周りに迷惑ばかりかける」お兄さんのことは「今まで一度も理解できたことはなかった」し「徹底的に避けて暮らしてきた」・・・、それなのに、「とんでもなく散らかった」「強い異臭のする」部屋に、同じく駆けつけてくれた別れた前妻さんと一緒に踏み込み、大量の遺品の片づけを始めると、その暮らしが病気で困窮していたことや、再就職を図り働き始めたばかりだったことが、残された「物」によって判り、著者は “苛まれ” ます。
たとえばシンクの洗い桶に突っ込まれた食器や、大量の飲み薬、水槽の亀と魚、壁に画鋲で留められた昔撮った家族写真や自分との写真、それから、職安でもらった求人募集の紙の束、履歴書、最後に勤めた警備会社の制服・・・、それらと対面する度に、自分の知っているお兄さんを思い出し、知らなかったお兄さんを新たに知り、これからお兄さんがどうしようとしていたのかという意思を見出すのですね。

「痕跡」に苛まれながらも、お兄さんの生活と54年の人生を遺品から発見して理解していった、5日間の弔い作業を記したこの実話を、私は一気に、丁寧に、読みました。

読んで、いろいろなことを考えました。私も、故人の遺した物・・・その暮らしの「痕跡」が発するものにとても敏感だし(少しですがサイコメトリーの能力があることもあります)、そこからあれこれ想像すること、その人の最期の意思を汲むこと、そういうことで供養をしようとする・・・、そういうことを改めて確認しました。「痕跡」に涙した体験の数々を、思い出しました。
そういうところはいつも、周囲にいた人たちからは理解されず「変わった感性」と言われていましたっけ。皆は遺体そのものや遺影を見て故人を偲んで泣いていましたが、私は、その人の残した、書きかけて丸めてゴミ箱に捨てた手紙(親友の場合)や、これから食べようとして皮をむきかけた果実(祖母)や、カメラに保存されていた写真に写っていたもの(父親)・・・を見つけて、ひとり涙していたからです。

ほぼ何処へも出かけずに たくさんの本を読んでいる今だから出会い、浸れた『兄の終い』でした。

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP