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「親」「大人」「子ども」・・・3つの「自我状態」

「交流分析」という心理療法では、人の心を、3つの「自我状態(自分のあり方)」に分けて捉えてみる、ということをします。

①「親」の自我状態
②「大人」の自我状態
③「子ども」の自我状態

※細かくは、
「親」は「父親的・支配的・批判的な親としての自我状態」と「母親的・受容的・養育的な親としての自我状態」、
「子ども」は「自由な子どもの状態」と「順応的な子どもの状態」
にそれぞれ分けるので、”3つ” ではなく”5つ” ということになりますが、この記事では “3つ” ということでいきます。

 

誰の中にも、親的なところ、大人な部分、子どもらしい/子どもっぽい部分がありますね。

極端に、ある面ばかりが際立っている人もいるでしょう。
いつ誰といても、父親っぽい言動をする人、みんなのお母さん的な人、
逆に、子どもみたいなことばかり言ったりやったりする人、
あるいは、いつも冷静で客観的で理論的、合理的な人・・・、というふうに。

また、「あの人には母性本能を掻き立てられる」という表現がありますが、
この人といるとつい、母親的、お姉さん的になって、守ってあげよう、世話を焼こうとしてしまう、とか、
この人に対してだけは、いつもは抑えている無邪気な子どもの部分を表現できる、子どもっぽいことを言ってしまう、とか、
この人とは対等に理性的に合理的に話ができるので仕事が捗る、とか、
相手によって 自分の中にある異なった「自我状態」を出して コミュニケーションをとっている、ということもあるかと思います。

普通は、自分の中にある「親」の部分、「大人」の部分、「子ども」の部分は、それぞれ、それを喚起し表現させてくれる相手がいます。
でも、たとえば、以前も書きましたが、イチロー氏は奥様のことを「ある時は恋人、ある時は妹、ある時は母親、ある時は親友のような存在」だと言っていましたから、イチロー氏は、奥様という一人の人を相手に、恋人になったり兄になったり子どもになったり友人になったり・・・と、幾通りものご自分の自我状態を、自然に自在に出したり引っ込めたりしながら、お二人ならではの豊かなコミュニケーションをとっているのでしょう。
そういう、一人の人物を相手に「親」「大人」「子ども」の自我状態どれもを出し合って繋がっている、という関係もあります。
これは、二人どちらも精神的に成熟していて相性が良い、という組み合わせにおいてでしょうね。

上の図は、自分にも相手にも「親」「大人」「子ども」の部分があって、お互いに、それのうちのどれかを出してやりとりをしている、ということを示しています。
人は、自分と相手それぞれが、ある自我状態からメッセージを出し、ある自我状態でそれを受け取って、交流しているんですね。
今日は詳しく書きませんが、自分の「親」の部分には相手の「子ども」の部分が、自分の「子ども」の部分には相手の「親」の部分が、また「大人」の部分には相手の「大人」の部分が それぞれ反応して やりとり をします。

交流分析を用いて、ご自分を知り、ご自分と他者との交流の傾向を知るのはとても有益で、楽しいです。
ご興味のある方には、セッションの中でいろいろとご紹介できますから、お気軽にお尋ねください。

 

★ ★ ★

 

昨日は、お客様とこの「やりとり分析」のお話をしたのですが、セッション後、自分と母との交流について考えたことがありました。

私の母は84歳で既に認知症を発症しており、近ごろは相当 “子どもっぽい” ことを言ったりやったりするようになっているのですが、
老いて、しかも認知症の母が私に「子ども」のような表現、要求をすること、それに対して私が母に「親」として接するしかなくなっている、ということ(つまり「親子逆転」になっていること)については、受け入れているつもりでした、母は病気なんだものね、仕方ないよね、と。
しかし最近は「カンベンしてぇ・・・」な出来事が増えてきて、心の深いところから何か(苛立ちとか哀しみとか・・・)が ぐわんと上がってくるのを感じることが時々あったのですね。

そのことについて、昨日セッション後、改めて思ったこと・・・
それは、娘である自分が母親に対して「親」をやる、というのは、(母が老い、認知症になった)今に始まったことではなくて、自分がまだ自立をしていない子ども時代から、もしかしたらとっても小さな少女だったときから、そうだったではないか?、そうだ私はずっと「親」だった・・・、ということでした。

親のくせに「子ども」を出してくるから、こっちは「親」になって、気遣ったり慰めたり守ったりするしかなかったよね。
だから私は、誰に対しても「親」の自我状態で関わることが多かったんだ。
ああ、私は「子ども」をちっともやっていない・・・!

そんな声が久々に聞こえてきました。

現在も昔も私にとって、精神的には “親らしい親” でなかった母親が、今も自分の目の前にいて「子ども」として不安げに、あるいは不満げに、私に 幼さ を見せてくることのやりきれなさよ・・・!です。

私は、ずっと後になってから、自分の中の「子ども」の部分の手当てや解放、養育は、私の場合、自分でやらなくちゃいけないのだと気づき、ある時は友人に、ある時は恋人に、そして結婚してからは夫にも、随分と面倒をかけたり迷惑をかけたりしながら、また何人かのプロの援助者のサポートを受けながら、少しずつ癒されて安定し成長していきました。
それは私にとって、今思えば かけがえのない体験 ではあったわけですが、でもやっぱり率直にこう思います。

子どもの時に「親」を持ち「子ども」を十分にやらせてもらった人は、幸い。

逆に、子どもの頃に子どもらしい「子ども」をやれなかった人は、のちのち何らかの生きづらさを抱えることになりがちなわけですが、そんな苦悩を解いていくとき、交流分析は役に立ちます。

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