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大人のおしごと

「自分は親から貰うべきものを貰っていない、教わるべきことを教わっていない。
だから、人として決定的に駄目なんだと思う、これからまともな人間になろうと思っても無理だと思う。」

そんなふうに言う人がときどき来室されます。
そのように言わなくても、親と暮らした日々が悲惨だから自分は何をやるにも自信がないし自分を肯定してやるということができない、というお話をされる人も少なくありません。

私自身もそうでしたから、そういう思いで生きている辛さとか、自身の人生に対する絶望も よく解るのです。
小さい時は、たとえ親の方が間違っているのであってもそのように思いませんから、自分の方を疑うし、親から出来るだけ嫌われないよう、喜んでもらえるよう、顔色を見るくせをつけながら努力したりするものです。

でも、大きくなって外の世界、他所の人と出会うにつれ、「あれれ?」と気づかされることが起きてきます。あれ?自分は間違っていなかったんじゃないかな…、そんなに酷いものじゃないのかもしれない、んん?うちの親の言ってたことはおかしいんじゃないか?というふうに・・・。

別に自分が悪かったわけじゃない。そう気づいたとしても、幼い頃につけてしまった 物事の捉え方、ものの感じ方、考え方、行動の仕方の「くせ」は、なかなか強力で、手放そうと思っても容易ではないと思います。三つ子の魂・・・というように、やっぱり小さい頃に毎日毎日吸い込んでいたもの、知らないうちに身に着けてしまったものを捨て去るのは難しいですね。気づいていればまだしも、気づけないままの人もいますしね。

ほんとうに、そこのところは多くの人が苦労するところです。
“そういうもの” なのかもしれないですね。人は誰でも まっさらな真の〈私〉で生まれて来て、わざわざ親によって「合っていないもの」「間違っているもの」を身に着けることを強いられて、曇らせられたり、弱らせられたりして、そして大人になって一人歩きを始めた後で、そのことが問題になってくる。苦しむことになる・・・。
うん、そんなふうに出来ているんでしょうね、人が成長とか成熟を遂げていくために、あえて。

私は若い頃、自分が自分らしく居心地よくいる、というのが苦手でしたし、ついつい「すいません、すいません」と遠慮したり恐縮したり申し訳なく思ったりする「くせ」がありました。
本当の自分らしく居ることを親から歓迎されなかったというか、全く理解されていない、好かれていない、という感覚を持っていましたので、とにかく家の中にあった嵐を収めることを心掛け、”役に立つ” 自分でいようと振る舞っていました。
そして、そうするうちに、本当の私らしい私が、すっかり活力や自信を失って影を潜めるようになっていきました。
その頃の私は、冒頭に書いたようなことを思っていたと思います。自分はダメな人間だな、何か欠落してるんだろうな、と。

でも、それから長い時間がかかりましたが、本当の自分で生きることを諦めたくない、という気持ちを失わなかったおかげで、少しずつではありましたが、回復が出来ましたし、「私らしい」ってただそれだけで素晴らしいな、という体験も出来ました。

たとえば、親からひとつも褒められなかったとします(私がそうでした…)。
でも、大人になってから、誰かからの高評価や称賛や感謝・・・といったものを受け取ることがあったなら、それは確実に自分が自分を創っていくときの糧になり、自分を支えます。
もちろん、100人の他人が褒めてくれるより、親1人が褒めておいてくれたらそれでよかったんだろうな…ということは思いますが、そこはもう仕方がないですもんね。誉めるに値しなかったのか誉めたくなかったのか褒めるということを知らなかったのか分かりませんけれど。

今は凸凹だったり傷ついていたり不愉快だったり、まんまるに満ちている〈私〉じゃないとしても、それを自分で 好きなように創っていくのが人生の中盤からなのだと思います。
“そういうもの” なんだな・・・と受け入れて歩いていくことをお勧めします。そうすると必ず、自身の成長や感動や感謝をもたらす出会いが、用意されるものだからです。

創り直すのが大人のおしごと。
もう「親から貰えなかったもの」は前提にしてやっていく(認識するのは大事ですけれど)。
そんなふうに思えたらいいと、私は思います。

 

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