今週は、「自分と合っていない場所で、合っていない人と一生懸命頑張ってきたために 気持ちが行き詰まってしまった人」とのセッションが2つ、ありました。
お二人ともそれぞれ、自己評価、自尊心が 昔から低く、そしてとても繊細。
だから、私から見たら根本的に全く合っていない場所で頑張って、「立っている地面が違うよね?」「その人は異星人なのでは?」という人たちに困らされ、傷つけられて、もう、くたびれ果てて限界に来ていたのでした。
ご自分の「これが好きだ」「これが嬉しい」「それはイヤだ」・・・を抑え込んで ひたすら他者を優先させていると、いつしか見失って分からなくなってしまいます、〈自分〉ってものが。
分からなくなっていることに加えて、辛抱強く他人に合わせるのが上手だったりすると、無神経、甘ったれ、図々しい、ガサツ、幼稚・・・そんな人たちが「厚かましく奪っていくこと」「平気で踏みつけること」を許すことになってしまいます。彼らはとにかく幼い・・・ “何歳になっても幼い”人たちですから、自分のどこが悪いのかなんて、一生考えないことでしょう。
人は皆それぞれ違うから、必ずしも理解し合えません。
でも、礼儀とか思いやりとか心優しい想像力とか尊敬の気持ちとか・・・そういうものをもって他者と関わることって、成熟した大人なら、当たり前に心掛けているものです。
そういう世界にいたいものだと思うなら、それができない人、そういう人が集まっている場所からは、そっと、キッパリ、離れることですよね。
その人たちはその人たちに相応しい体験と勉強があるし、私には私の体験と勉強があります。
決して馬鹿にするわけではなく、知性とか精神性とか、そこから作られている価値観・・・そういうもののレベルが違いすぎるなら、一緒にいるのは無理。これは当然なんです。
お二人にはそれぞれ、「違う」ところで「違う」人たちと頑張り過ぎましたね、という話をさせてもらい、ぜひ、自分の興味・関心や違和感を感じて、知らせて来るセンサー(あんまり使ってなかったかもしれないけど、ほんとは高性能!) を頼りに、堂々と、「居場所」や「縁を繋ぐ人」を選んで、やっていってほしい、とお話ししました。
「違った」と分かったら、「これまでありがとう。さよならお元気で!」です。
道に迷って蹲っってしまった人が再び立ち上がれたときには、
「これは〈愛〉なのか違うのか」
「〈自分〉は喜んでいるのかいないのか」
そこだけ自分に問い続けながら、自分が納得できる心地よいペースで、好きなように歩いて行ってほしい。私はいつもそう思います。
